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企業紹介第162回宮城県天祐丸冷凍冷蔵株式会社

顧客のニーズに柔軟に応え、
時代にあった高付加価値な商品を作っていく

天祐丸冷凍冷蔵株式会社のルーツは牡鹿半島のほど近くにある田代島。創業者は、この地で生まれ育った尾形孝三郎さんです。孝三郎さんは、もともとは船を何隻も持ち、日本近海はもちろん、ベーリング海峡や南米など遠洋での漁業も幅広く行っていたのだそう。漁業で獲った魚を効率的に利用するために加工の必要性を感じ、自社の漁船の名である“天祐丸”を冠した加工会社を立ち上げたのです。

「創業者は曾祖父で、私は四代目になります。曾祖父は私にとっては優しいおじいちゃんでしたが、ロシアとの漁業交渉をするなど、あの当時の漁業を引っ張っていった1人で、とてもパワフルな人だったと聞いています。加工の会社を立ち上げたのも、“危険な思いをして獲った魚が市場で安く買いたたかれるなら自力で加工しよう”と始めたそうです」(天祐丸冷凍冷蔵株式会社 代表取締役 尾形昌克さん、以下「」内同)

天祐丸冷凍冷蔵株式会社 代表取締役 尾形昌克さん

天祐丸冷凍冷蔵株式会社の設立当初は、自社調達だけでなく、地元の石巻や北海道などからも原料を仕入れていました。しかし仕入れを安定させるため、その後、徐々に輸入原料にシフトしていきます。中でも特徴的なのはタラの直輸入。アメリカの会社から、商社を通さずに仕入れることで、安価かつ品質の良い原料を確保することができるのです。

「取引をしているシアトルにあるブローカーの前身は、田代島出身の人がアメリカにわたり、自分で船を持って漁をしていた会社なんです。その関係で、うちの天祐丸の元船員が向こうの船に技術指導員として乗っているので、我々が求めることを直接反映してもらえるんです。船での凍結技術によって原料の品質は大きく左右されるので、最初の凍結に関われることが、品質の良さに直結します」

現社長の昌克さんは、最初は築地で寿司ネタの仲卸をやっている会社に就職したのだそう。「工場が休日の遊び場だった」環境に育ち、水産関連の会社に行くのは当たり前の感覚だったと言います。そして満を持して平成13年に家業に戻り、魚を卸すなどの現場の仕事、営業、財務などを一通り経験してきました。

「親からは家を継げというプレッシャーはありませんでしたが、親が加工の会社、伯父が漁業の会社をやっていましたし、子どもの頃から、さんま船が出航する出船式で紙テープを持って見送ったり、大漁祈願の宴をやっていたような家だったので、ゆくゆくは自分も何か関わるんだろうなとは思っていました。家を継ぐのは自然な流れだったと思います」

創業時に使っていた荷札

大きな被害を被るも、復活はどこよりも早かった

昌克さんが入社して10年目に起きた震災。石巻市の海沿いにある天祐丸冷凍冷蔵株式会社を襲った被害は甚大なものでした。第1工場と第2工場は屋根と柱を残して全てが津波で流され、門脇工場は災害危険区域にあったため、撤退を余儀なくされました。

「震災当日は、あの揺れでしょう。当時社長だった父の判断が早く、揺れた瞬間、“とにかく逃げろ、海から離れろ”と従業員を逃がしました。もう少し遅かったら大渋滞に巻き込まれていたと思いますが、その前に逃げられたので従業員は全員無事でした。自分を含めた5~6人だけ、もし津波が来なかった時の片付け要因で残っていたのですが、ラジオで“大津波警報”なんて聞いたこともないような言葉が出て驚いて。冷蔵庫のある建物の屋根の上に皆で避難しました」

屋根に上がってすぐ、真っ黒な水が屋根の下まで押し寄せてきたのだそう。冷凍倉庫のため基礎はしっかりしているとは言え、何かあった時のために隣の建物との間に橋をかけ、逃げる準備をした後は、一晩中、屋根の上で過ごしました。津波は「13回まで数えた」けれど、それ以上は数えるのをあきらめるほど何度も繰り返しやってきました。朝6時頃、ようやく波がひいたのを確認して屋根を降り、何とか通れる道を探しながら歩いて避難所までたどり着きました。

「当日は雪が降ったり止んだりしていましたが、夜中は結構、晴れていて。市内が停電で真っ暗なのですごく星がきれいでした。遠くに火事の炎が見え、それと星のギャップがすごくてね。想定以上の出来事が起こったので、怖いとか、これからどうしようとか、そんなことは考えられなかったです。民家の多い地域だったら、きっと感じ方も違うんだと思うけれど、この辺りは工場団地で、流れているものも仕事で使うものだけだし、現実感がなかったですね」

その後、自身も避難所で生活をしながら、一軒一軒避難所を回って従業員の安否確認を開始しました。そして全員の無事が分かった頃、すぐに復活を決め、まずは工場や事務所の片づけを始めます。その後、塩釜の知人から空いている加工場の一画を借り、6月にはそこを仮工場として再始動しました。

「4月に1度従業員を全員解雇したんです。その時に、絶対にまたやる、その時はお声がけしますと言ってね。それから2か月くらいで復活が決まったので、戻れる人には戻ってもらって、みんなで早朝、石巻から塩釜まで通いました。周囲はなかなか踏ん切りがつかない方も多かったようですが、父は“何とかお客さんをつなぎとめたい”と、とにかく決断が早かったです」

その後、2012年の5月には石巻に現在の工場が完成。塩釜から石巻に戻ってきたのも、周囲よりはだいぶ早かったのだそうです。ただし再建時に「小さく再開して、軌道に乗ったら大きくする」との考えのもとに工場を縮小したこと、災害危険区域にあった門脇工場は撤退せざるを得なかったことから、以前に比べ生産量は減少。また石巻に戻った後、原発の風評被害にも苦しめられ、なかなか軌道に乗れない状態が続きました。

現工場でも全員が目にする場所に「避難計画」を貼っている

省人化で出来たリソースで
新商品開発を軌道に乗せる

震災からの復興半ばの状態だった平成27年、昌克さんが社長を引き継ぐこととなりました。その後は、営業努力の甲斐もあって徐々に生産量も増えてきていたのだそう。しかし、震災時に従業員が減り、その後も「小さく」経営してきたため、今度は人手不足に悩まされることとなりました。そこで今回、省人化、作業の効率化を勧めるため、販路回復取組支援事業を活用することとしたのです。

「今回入れたのはヘッドカッターと、三枚おろし機です。今までは手で頭を落としていたのですが、人員も少ないので機械化できるところはしていかないと回りません。三枚おろし機は古い機械があったのですが、決まった魚体サイズにしか使えませんでした。そのため、お客さんからの要望にも応えられないことも多くあったのですが、新しい機械によって様々なサイズの魚に対応できるようになり、生産量も大幅にアップしました」

ヘッドカッターと三枚おろし機で省人化、生産効率化に成功

もう1つ、新製品開発のために入れたのが真空密着包装機です。これにより、従来は捨ててしまっていた端材の詰め合わせなどの新商品開発に成功しました。コロナ禍の影響もあってか、顧客からも真空個包装の要望が多いのだそう。これまでは試作品中心で製造を行っていましたが、需要増が見込まれる今冬に向けて本格稼働を始めています。

「今作っているのは、メヌケ、赤魚などの端材の詰め合わせです。原料代も電気代も上がっているので、何とか利益率の高い商品を作ろうと思って考案しました。うちは端材と言っても、身の部分がしっかりと残っている、可食部の多いものを使うので、おかげ様で好評です。作れば売れる状態で、在庫がなかなかたまらない状況です」

ヘッドカッター、三枚おろし機で省人化がかなったことで、新製品に人員をあてることもできるようになりました。また、震災後はなかなか人手が確保できないことのほかに、社員が高齢化していることも大きな課題となっていると言います。昌克さんが省人化、省力化を求める背景には、一緒に働いてくれる社員たちに「きつい残業を強いたくない」という思いもありました。

加工度をあげた商品で利益率の向上を目指す

社長に就任してからというもの、震災からの復興、海の変化による水揚げ量の低下や不安定さ、コロナ禍、物価高など、様々な困難に直面している昌克さん。特に輸入の比率が高いため、円安による原料価格の大幅な上昇や「昨年の倍近くになった」電気代の高騰には大きな影響を受けています。

「直接輸入の品質の良さがウリだったのですが、今はとんでもない値段になってしまうので、直輸入はできないんです。もともと原料の品質には自信があって、価格に惹かれて他社に流れた取引先さんが“やっぱり天祐丸さんの品質じゃないと”と言って戻ってきてくれることも多かったんですけどね。今後は原料以外にもウリを見つけていかないといけません」

そのためにも新たに導入した真空密着機などを用い、より加工度の高い商品を作り利益につなげたいと昌克さんは話します。真空でも「切身などのどこでもやっている商品」ではなく、味噌漬け、粕漬けなど、付加価値が高い商材の開発も検討しています。

「ウチの粕漬けを作る酒粕は石巻の有名な酒蔵さんから仕入れているんです。お酒好きの人なら、その酒蔵さんは絶対に分かるんじゃないかな。そういう流れで、例えば、それぞれの地域で有名な地元の酒蔵さんの酒粕や麹を使った商品を作って、そのエリアで重点的に販売するような展開も考えています。昔ながらのやり方だけでなく、今の時代にあった製品を他にも開発したいと思って、若い人の意見もなるべく聞くようにしています」

地元の酒蔵から仕入れる酒粕にこだわった粕漬け

今回の機器導入以外に、もう1つ明るい兆しも見えてきました。コロナで入国を制限されていた外国人技能実習生が帰ってきたことです。実は、現会長である昌克さんのお父様は技能実習生の監理団体の理事長もしていらっしゃるそう。昌克さんも、初めて日本に来た実習生がなるべく早く馴染んでくれるように、休暇には社員と実習生で紅葉を見に行くなど、日本での生活を楽しむ体験も数多く行っているのだとか。

「最近はバリ島からの実習生を多く受け入れています。実習に来てくれた子が、日本の生活をSNSで発信して、それを見たバリ現地の子が石巻に行きたいと言ってくれているみたいなんです。事務所にも中国、ベトナム、バリ島など、みんなの故郷の地図を貼ってコミュニケーションにも役立てています」

実習生の故郷の地図

大変な被災の話もどこか明るく飄々と語り、仕事の効率以上に、高齢になった社員や日本に慣れない実習生のことに心をくだく昌克さん。そのやさしさで、クライアントのニーズにもきめ細かくこたえ、今の苦境も明るく乗り越えていくのでしょう。

天祐丸冷凍冷蔵株式会社

〒986-0022 宮城県石巻市魚町1-10-8
自社製品:マダラ、赤魚、メヌケ、サバ等のフィレ、切り身、漬け魚

※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。