販路回復 ・ 助成事業 ・ アドバイザーについて、
まずはお気軽にご相談ください
ご相談のお申し込みはこちら
企業紹介第4回宮城県有限会社ヤマユ佐勇水産

多くの人たちの支えでよみがえった家族経営の加工場

土埃舞う石巻市明神町。普段なら目的地を正確に教えてくれるカーナビも、ここではあまり役に立ちません。地図上の道があったりなかったり。来た道を折り返し、ぐるっと回ってたどり着いた場所が、この日の取材先、有限会社ヤマユ佐勇水産(宮城県石巻市)でした。

「あの盛り土部分が道路になって、産業地区と住宅地区に分けられるんです」

同社社長の佐藤由隆(ゆたか)さん(50)が、工事現場のほうに目をやりながらそう教えてくれました。震災から5年が経ちますが、この地区では日常に戻っている人よりも工事関係者のほうが多いかもしれません。

津波で壊滅的な被害を受けた付近一帯では至るところで建設工事が行われており、まだまだ復興は「道半ば」という現実を突きつけられます。

ヤマユ佐勇水産の工場前で。佐藤さん(中)と妻の央子(ようこ)さん(左)長男の勇太さん(右)
ヤマユ佐勇水産の工場前で。佐藤さん(中)と
妻の央子(ようこ)さん(左)長男の勇太さん(右)

ヤマユ佐勇水産は、元々かつおぶしの製造をしていた佐藤さんの祖父・勇治さんが創業した会社で、父の辰夫さんの代に鮮魚の加工と卸売りを中心に行うようになりました。

佐藤さんは3代目になりますが、高校生時代、この仕事をしようとは考えていなかったようです。

「私は工業高校に通っていたので、自動車関連の会社で働くんだろうなと思っていました。 でも、学校で自分だけ三者面談がなかったんです。『先生、俺は面談ないの?』と聞いたら『お前の父ちゃんが働くところ決まってるからいいってよ』と(笑)。近くの水産加工会社に入れるように、父が根回しをしていたようです。そこで勤めた後は、仲買人の仕事などをして、8年前にこの会社を継ぎました」(佐藤由隆さん・以下「」内同)

先代からは独自の調味液を受け継ぎ、赤魚や銀タラ、ホッケ、サバなどを、粕漬け、味噌漬け、みりん漬けなどのほか、新しく塩こうじ漬けなども始めて、主に生協などに出荷しています。 味噌には地元の長寿味噌(仙台味噌)を使うなど、素材にもこだわります。 特に評判が良いのは「銀タラのみりん漬け」で、同業者からも注文が入るとか。

津波は来ないと思ったが躊躇せずに避難

海から400メートルほどの場所にある本社工場は、津波で1階部分が全壊しました。
佐藤さんは震災当日をこう振り返ります。

「津波警報が出ていたので、私たちは近くの湊中学校の校舎に避難しました。でもまさかあんなに大きな津波が来るとは思ってもいませんでした。警報が解除されたら工場に戻って仕事をしようかな、というくらいの気持ちでいたんです」

それでも躊躇せずに避難したことで、多くの犠牲者を出したこの地区で自分の身を助けることにつながりました。

教室の窓から見える景色が変わり果てた中、佐藤さんが心配したのは3人の子供たちです。

自宅にいた長女は同じ湊中学校に避難して無事でしたが、アルバイトに出ていた長男、仙台の高校に通う次男とは連絡が取れずにいました。

被災後の工場の様子
被災後の工場の様子

「長男は2日目に自力でこっちまで来ましたが、次男とは連絡がつかず、中学校の黒板に居場所を書いて、次の避難先に移動しました。仙台に住む私の兄の家にいて無事だったことは後から知りました」

4日目に自衛隊のヘリが来て、佐藤さんたちは石巻北高校の体育館に避難しました。それまでは分けてもらったビスケットを1枚か2枚食べただけ。飲み水は近くの給食センターの2階に残っていたものを取りに行ってしのいでいました。

一週間後、工場に戻った佐藤さんの目の前には、巨大なタンクがありました。
津波によって流された缶詰型の巨大タンクが道路中央に横たわっている映像をご覧になった方も多いと思いますが、あれと同じものがもう一つ、ヤマユ佐勇水産の本社工場のところまで流れ着いていたのです。
タンクに入っていた油が漏れていたため、工場の片付けは難航しました。

「本社工場の復旧には時間がかかりそうなので、冷蔵庫の魚を海洋投棄する作業を済ませた後、湊町にある第2工場の片付けから始めました。そちらも壁は全部抜かれていたけど、被害は本社工場ほどではありませんでした。ライフラインが止まっているので、水汲みをしながらの掃除でしたが、ボランティアの方たちにも手伝ってもらったことで、その年の10月には生協への出荷を再開することができました」

従業員がいて機材も揃っていた頃とは違い、妻と二人だけの小さな再出発。

しかしこれが大きな一歩となり、この後時間はかかりましたが本社工場の復旧へとつながったのです。

本社工場を襲った津波の高さを記録として残している

本社工場を襲った津波の高さを記録として残している

今後は調理も行える工場に

明神町の本社工場が新しく生まれ変わったのは2013年6月のこと。震災から2年以上が経っていましたが、それでもこの周辺で最も早く工場を再開させたのは同社だったそうです。

従業員の数は徐々に増え、2014年には長男の勇太さんも入社し、現在は総勢14人がこの工場で働いています。

「最近、助成金でスチームコンベクションオーブンを導入することができました。これを使えば、煮たり焼いたりした状態で、うちの工場から出荷できます。今はいろいろなものを試作している段階で、ナメタガレイの煮付け、ブリかまの照り焼きなど、商談に入っているものもあります。真空パックにしているので、あとはレンジや湯せんで温めるだけで食卓に並べることができます。忙しい主婦の方が増えているので、今後ラインナップを増やしていきたいと思っています」

会社全体の売り上げの回復はまだ8割ほど。煮たり焼いたりした商品を出荷するのは同社では初めてのことですが、残り2割を回復すべく、このスチームコンベクションオーブンにかける期待は大きいようです

導入したスチームインベクションオーブン
導入したスチームインベクションオーブン
商品化予定の試作品を並べる佐藤さん
商品化予定の試作品を並べる佐藤さん
試作品「なめたかれい煮付」等
試作品「なめたかれい煮付」等

訪れたボランティアは延べ2000人

しかし業績が完全に回復しても、それだけでは足りません。
震災前と震災後では、出て行くお金に大きな違いがあります。

「これまでは、利益が出ればそれを元手に新しい機材を購入できましたが、骨組みだけになった工場を新しくした時に借り入れをしているので、その返済もしながら経営をしていかないといけません」

会社だけではなく、佐藤さん個人にも大きな経済的な負担がのしかかっています。
建てたばかりの自宅と車を失った佐藤さんには、ローンだけが残りました。
2016年5月現在も、仮設住宅での生活が続いています。

「新しく造成されている場所にもうすぐ引っ越す予定です。ローンの審査に通れば、ですけどね」

公私ともに大きな打撃を受けながらも前に進むことができるのは、全国から訪れたボランティアの人たちの力が大きいようです。ヤマユ佐勇水産だけでも述べ2000人が工場の片付けを手伝いました。事務所内には、ボランティアに来た人たちからの手紙などが大事に保管されており、今も交流が続いているようです。

本社工場の外壁の社名と、「いまから ここから」、「心ひとつに」という筆書きのメッセージは、九州国立博物館のシンボルマークなどを手がけた福岡県の書道家・西尾真紀さんによるもの。

ボランティアで石巻を訪れた西尾さんと佐藤さん夫妻が知り合ったことで実現したそうです。

「この仕事をしていて一番嬉しいのは、やっぱり自分の工場で加工した魚を『おいしい』と言ってもらった時ですね」

おいしい魚を食卓に届けていくことが、支えてくれた多くの人たちへの恩返しになるのでしょう。

有限会社ヤマユ佐勇水産

有限会社ヤマユ佐勇水産

〒986-0027 宮城県石巻市明神町1丁目5-36
自社製品:赤魚、銀タラ、ホッケ、サバ等の
粕漬け、味噌漬け、みりん漬け、塩こうじ漬け ほか

※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。