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企業レポート 被災地で頑張る加工屋さんをご紹介します

津波は来ないと思ったが躊躇せずに避難

海から400メートルほどの場所にある本社工場は、津波で1階部分が全壊しました。
佐藤さんは震災当日をこう振り返ります。

「津波警報が出ていたので、私たちは近くの湊中学校の校舎に避難しました。でもまさかあんなに大きな津波が来るとは思ってもいませんでした。警報が解除されたら工場に戻って仕事をしようかな、というくらいの気持ちでいたんです」

それでも躊躇せずに避難したことで、多くの犠牲者を出したこの地区で自分の身を助けることにつながりました。

教室の窓から見える景色が変わり果てた中、佐藤さんが心配したのは3人の子供たちです。

自宅にいた長女は同じ湊中学校に避難して無事でしたが、アルバイトに出ていた長男、仙台の高校に通う次男とは連絡が取れずにいました。

被災後の工場の様子

▲被災後の工場の様子

「長男は2日目に自力でこっちまで来ましたが、次男とは連絡がつかず、中学校の黒板に居場所を書いて、次の避難先に移動しました。仙台に住む私の兄の家にいて無事だったことは後から知りました」

4日目に自衛隊のヘリが来て、佐藤さんたちは石巻北高校の体育館に避難しました。それまでは分けてもらったビスケットを1枚か2枚食べただけ。飲み水は近くの給食センターの2階に残っていたものを取りに行ってしのいでいました。

一週間後、工場に戻った佐藤さんの目の前には、巨大なタンクがありました。
津波によって流された缶詰型の巨大タンクが道路中央に横たわっている映像をご覧になった方も多いと思いますが、あれと同じものがもう一つ、ヤマユ佐勇水産の本社工場のところまで流れ着いていたのです。
タンクに入っていた油が漏れていたため、工場の片付けは難航しました。

「本社工場の復旧には時間がかかりそうなので、冷蔵庫の魚を海洋投棄する作業を済ませた後、湊町にある第2工場の片付けから始めました。そちらも壁は全部抜かれていたけど、被害は本社工場ほどではありませんでした。ライフラインが止まっているので、水汲みをしながらの掃除でしたが、ボランティアの方たちにも手伝ってもらったことで、その年の10月には生協への出荷を再開することができました」

従業員がいて機材も揃っていた頃とは違い、妻と二人だけの小さな再出発。

しかしこれが大きな一歩となり、この後時間はかかりましたが本社工場の復旧へとつながったのです。

本社工場を襲った津波の高さを記録として残している

▲本社工場を襲った津波の高さを記録として残している

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