復興水産加工業 販路回復推進センター

 

販路回復・助成事業・アドバイザー 相談の申し込み

企業紹介企業紹介

企業レポート 被災地で頑張る加工屋さんをご紹介します

震災後は静岡、そして東京で成長のために学ぶ

震災のあった3月は小女子の加工の準備時期。さほど忙しい時期ではなく、信幸さんは午前中で仕事を終え、自宅にいたそうです。その頃、ご子息で今はマルタ水産の専務を務める太さんは、浜で赤貝の買い付けを終えた頃でした。

有限会社マルタ水産 専務取締役 相澤 太さん
▲ 有限会社マルタ水産 専務取締役 相澤 太さん

「港にいてそろそろ戻ろうかと思ったらすごい揺れが来ました。車にあったワンセグのテレビを見たら、6メートルの津波が来ると言っていて。大変だと思って、慌てて工場に帰り、父と母を乗せて近所の小学校に避難しました」(有限会社マルタ水産 専務取締役 相澤 太さん、以下「太さん」という)

小学校に避難して30分ほどしたところ、閖上の街を津波が襲い「街が飲み込まれていく」のを見ていたそうです。閖上の街はほぼ壊滅状態となり、7000人近くいた閖上地区の人口のうち700名以上が亡くなりました。相澤さんのご親戚や、従業員の方も犠牲となりました。

「親戚は以前、震度5の地震が来た時、津波が来ると思って避難したのに何もなかったから油断してしまったんだと思います。震災の時は停電になってテレビも見れなかったので、息子が帰ってきて逃げようと言ってくれなかったら、自分も逃げなかったかもしれません」(信幸さん)

工場も全壊となったため、震災後しばらく相澤さん親子は被災者支援に名乗りをあげていた静岡の水産加工場に働きに行くこととなりました。そこでは、「釜揚げしらす」の加工をイチから教わったそうです。シラスと似た小女子には慣れていたものの、宮城県では釜揚げしらすを食べる習慣がなかったため、全く新しい体験だったそうです。

その後、半年ほど経過して社長の信幸さんは閖上に戻ることになりました。閖上地区で復興の準備をするためです。しかし専務の太さんは、そこから東京で就職する道を選びました。

「震災から半年の時点で自分が宮城に戻っても、何もできることはないと思いました。だったらもっと勉強したいと思って東京で大手の水産会社に就職しました。震災の後、マイナスからのスタートだし、いずれ自分が会社を背負うと思うと、自分はもっと成長した方がいいと思ったんです。東京で5年間勤め一通り勉強できたという実感もあったし、宮城に新工場が完成したこともあって、2017年の3月にマルタ水産に戻りました」(太さん)

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4
TOP