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第54回岩手県有限会社竹下水産

「魚をもっと食べやすく」 ―顧客目線で商品開発を進める

左手に三陸の海を見ながら、崖の上の国道45号線を南下。右にカーブして小さな漁港(茂師漁港)を見届けた後、今度は海を背に向けて内陸方面へと進んでいく。小成トンネルという小さなトンネルを抜けると、そこはもう「山の中」に違いないのですが、ここで「ある標識」が姿を現します。

『過去の津波浸水区間 ここまで』

津波の浸水区間を示す標識は三陸沿岸地域の至るところに設置されていますが、この標識はそれらの中でもとりわけ「津波のイメージが湧かない場所」にあると言えます。周りは山に囲まれ、そこからは海も見えない。東日本大震災の津波はこんなところまで来たのかと、改めてその大きさを思い知らされます。

岩手県下閉伊郡岩泉町の小成地区。竹下水産の工場は、その標識から200メートルほど先にあります。同社は2012年5月に、同じ下閉伊郡の田野畑村から移転してきました。震災前の工場は津波によって大規模半壊したため、津波が届かなかったこの場所に工場を建てたのです。

竹下水産社長の竹下幸治さんは、工場の目の前に海があった頃と今とでは、安心感がまるで違うと言います。

▲ 竹下幸治さん。自ら運転する4トントラックで三陸各地の魚市場を回る

▲ 竹下幸治さん。自ら運転する4トントラックで三陸各地の魚市場を回る

「山は不便だけど、安心。安心は銭では買えません。以前工場があった田野畑村には20メートル近い大津波が来て、村の防潮堤も破壊されました。他の被災地の津波も映像で見ましたが、私たちが目にしたのはそれよりも激しい津波で、その威力は頑丈なH鋼の鉄骨を弓形にうねらせるほどでした。かさ上げ工事で地盤を少し高くした程度では、同じような津波にはとても勝てない。こればかりは『逃げるが勝ち』ですよ」(竹下幸治さん、以下「」内同)

竹下さんが決断した「撤退」は、決して後ろ向きな理由ではなく、一日も早く復興を遂げるため、そして長く安心して仕事を続けるためでした。

この場所を見つけるまでに、竹下さんは他の候補地をいくつも歩いて回ったのだそうです。資金調達にも苦労しました。震災後、国や自治体からの補助金を活用して新しい工場を建設した水産加工業者が多かった中、竹下さんのケースでは震災前と同じ場所に工場を建てなければ補助の対象にならなかったため、借り入れに頼るしかありませんでした。

新工場の建設費は総額1.5億円。工場を再開するまでの1年余りの間、「貯めていたお金を今使わないでどうする」と従業員に給料を払い続けていた竹下さんにとって、それはとてつもなく大きな金額でした。売り上げがない中、ローンと給料を二重で支払い続けるという日々。あえてそんな厳しい道を選んでまで「安心」を買ったのは、小さい頃から津波の恐ろしさを嫌というほど聞かされていたからです。

「私が生まれる11年前の昭和8年(1933年)、昭和三陸地震という大きな地震がありました。この時、田野畑村で個人商店を営んでいた私の祖母は、心配になって店に戻ってしまった。その間に津波にのまれて亡くなってしまったんです。私は小さい頃、両親からその話をよく聞かされていたので、津波が来たら逃げることを最優先にしなければいけないと思ってました。地震があった直後、若い従業員からは、『社長、ここまでは津波も来ませんよ。今トンネルフリーザーを動かしているから、逃げたら作っている製品が台無しになる。このまま仕事を続けましょうよ』と言われましたが、『今日は俺は逃げる!』と言って全員を避難させました」

当時工場には25人以上の従業員がいましたが、トラックで避難するなどして全員無事でした。高い場所に避難してから津波が来るまでの間、竹下さんの気にかかったものの一つが、工場に納品されたばかりの新しいフォークリフト。取りに行こうと思えば、行ける。しかし何度も聞かされた祖母の話の記憶が、竹下さんを思いとどまらせました。

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