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企業紹介第201回宮城県水野食品株式会社

多様な規格に対応する機械導入と
職人の手技で「漬魚」を食卓へ

切身、漬魚などの製造を営み、味の良さでも定評のある水野食品株式会社。創業者は、現在代表取締役会長を務める水野 隆さんです。

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水野食品株式会社 代表取締役会長の水野 隆さん

水野さんは大学卒業後、大阪の水産市場へ就職、2年後の24歳の頃に石巻へ戻り、練り製品製造を行っていた家業に入りました。

「子どもの頃から父と母の姿を見ていましたし、いつか自分も水産加工の仕事に就くんだろうなとは思っていました。この仕事が好きだったし性に合っていたんですね。会社に入ってから、石巻港にも大型の漁船が入るようになって、入札や競り、買い付けを担当するほか、すり身の研究もずいぶんしました」と水野さんは言います。

その後、家業で漬魚も扱うことになり、水野さんは取引先へ出向し、その製造法や調味方法などを学びました。そして、1979年(昭和54年)に切身や漬魚部門を分離、独立させる形で水野食品株式会社を創業しました。

水野食品では銀だらの西京漬け、赤魚粕漬け、さばみりん漬干しをはじめとした漬魚のラインナップを豊富にそろえ、関東を中心に量販店、生協を中心に販売。埼玉県さいたま市に営業所を持ち、顧客からの声を丁寧に吸い上げ本社に共有、顧客のニーズに合わせた商品の開発に生かしています。また、同社では下ごしらえの初期作業から、切身加工、調味漬けから仕上げまでをほぼ一貫で行っており、創業当時からの味と品質を守り「漬魚で日本の食卓を幸せに」という理念のもと、日々研鑚を続けています。

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主力商品の「銀だらの西京漬け」。創業当時からの味を守りつつ、魚が捕れた時期や脂のノリなどを見極め調味の配分を変えるなど味の追及に余念なく取り組んできた

お客様からの励ましで決意したゼロからの再起

2011年(平成23年)3月11日に起きた東日大震災。石巻は、津波、そのあとの火災と被害が特に大きい地域でした。震災当日、大きな揺れが襲った際、本社工場にいた水野さんは、従業員とともに高台にある小学校に避難し難を逃れましたが、本社工場は津波で全壊し、機器も流されてしまいました。

「なにもかも無くなったけど、取引先の生協や、お客様から『復興を願っている』『頑張って』という声をたくさんいただいて。これはなんとかしてもう一度やらないといけないと覚悟を決めました」(水野さん)

そして、震災から2カ月後の5月、工場の片付けから始動。まさにゼロからのスタートでした。すべての建屋を立て直すか一部を再建するか検討のうえ「一番早く製造を再開できる方法を選んだ」という水野さん。顧客からの声に早く応えたいという一心でした。同年9月、一部工場の再建に着手。11月に製造再開に漕ぎつけました。

「つらいとは思いませんでしたね。やっぱり魚が好きだったからかな」(水野さん)

ピーク時には50名ほどいた従業員でしたが、石巻に戻ってこられない従業員も多くいたため、約20名からのスタートとなり、何とか注文に応えるため、毎日22時ぐらいまで仕事を続けていたそうです。

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震災後にお客様から寄せられたメッセージは、震災から10年以上たった今も大切に社屋に飾られている。これらの言葉を支えに再起への歩みを続けた

甚大な被害を受けた同社でしたが、一筋の灯りもありました。震災当日の3月11日、出産のため里帰りをしていた隆さんの長女、伯子(のりこ)さんが、混乱のさなかの同日の晩、第二子を無事に出産したのです。震災直後の出産、そして産後の日々の苦労は想像を絶しますが、その日生まれた子はすくすくと成長し、現在中学2年生に。伯子さんは、一旦東京に戻ったものの5年後に石巻へ戻り、同社に入社。現在常務取締役兼、品質管理部門の責任者として会社の中枢を担っています。

「震災を体験して、東京で大きな災害が起きたら私はなにもできないと思い、不安でしかありませんでした。石巻なら、これから何かが起こったとしてもやっていける。そう思って石巻へ家族で戻りこの仕事に就きました。幼い頃から保育園や学校が終わったら、父母が働くこの工場に帰ってくる毎日でした。水産加工業の道に入るのに、大きな決意とかあったわけではなくて。工場は私にとって慣れ親しんだ場所で、これが日常なんです」と笑う伯子さん。

伯子さんが幼い頃から働く従業員もいる。だからこそ、と伯子さんはこう続けます。

「私はこの仕事についてまだ6年。従業員たちとのコミュニケーションを大切にして、日々学ばせてもらう気持ちで取り組んでいます。納期や生産性の確保など課題もありますが、従業員の希望に沿って働く環境も整えたいです」(伯子さん)

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常務取締役で、品質管理部門の責任者を務める永尾伯子さん。
4児の母でもあります

多様な包装形態に対応できる機器導入で
販路拡大と労働環境改善へ

早期に工場を再開した同社ですが、製造の空白期間に顧客や売場スペ―スを失い、その後の原発事故による風評被害もあって、震災直後のシーズンの売上は震災前の約20%にまで落ち込みました。

その後、展示会への出展も積極的に行うなど販路拡大を進め、2018年(平成30年)2月本社工場を全面改築、同年4月には対米HACCPも取得しました。2022年(令和4年)6月の決算では、震災前の約60%まで売上を回復させたものの、震災前に主力としていた銀だら、メロ、キチジといった高級魚の原料事情が悪化したうえに、労働力不足による生産制限など課題も多く、震災前の水準まで売上が回復できていない状況でした。

「漁場環境も変わっていくので、そこに対応して原料の仕入れがしやすいサバ、赤魚などを使って柔軟に製品づくりを進める必要がある。なにかやらないといけないと思いました」(水野さん)

顧客へのヒアリングでは、例えば赤魚ならこれまで1切だったところを、2切や3切にするなど、使用原料の魚種や量目、形状、単価などの規格を要望に応じて変更する必要があることが分かりました。売上を伸ばすためには、これに応えていかなくてはいけませんが、生産量を落とさず、多様な規格の包装に対応するには従来の設備では難しい状況にありました。

そこで販路回復取組支援事業の補助金を活用し、新たに導入したのが、深絞包装機とラベル機です。機器の導入によって、漬魚製品の製造過程で、従来は7名で1時間当たり1,500パックの生産量でしたが、同条件で1,800パックの生産が可能になり、20%の増産体制となりました。

「製造時間が短縮できたこともとても大きいです。効率化できたことで、別の工程に人員を回すことで、残業の削減もできました」と伯子さん。生産性の向上とともに、労働環境の改善も図ることができたのです。

製造時間の短縮と新たな型枠の増設により、要望の大きかった新規格3切(180g)など、取り扱い製品の幅が広がり販路の回復につなげることができました。その結果、今回導入した包装機を用い製造する漬魚の製造数が計画数を上回り、売上増を果たしました。

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新たに導入した深絞包装機(左)とラベル機(右)。大幅な生産能力アップとなった

手切り品質がこだわり
「信頼を裏切らない」おいしい魚をこれからも

取材に訪れた日、工場内では銀だらの切身加工が行われていました。同社のこだわりである手切りによる加工。そのメリットを伯子さんはこう話します。

「まず、歩留まりがよい点です。魚の形状、尻尾の形などを見極めてカットする手切りのほうが無駄なく原料を生かすことができます。規格それぞれの細かいニーズに応えるため、とくに単価が高い原料は、手切りのほうが確かです。機械も一部使いますが、わた取りも一枚一枚手作業で行っています」(伯子さん)

そこで重要なのが「人材の教育」だと伯子さんは言います。

「一人ひとりを職人として育てていかないといけないので、1日で扱う魚種を絞って、長年勤めている従業員が教えながら担当してもらっています。魚の形を見てどうやって包丁を入れていくか、どう刃を入れれば無駄なく切れるかといった目利きも重要です。工程によって得手不得手はあるので、適材適所に人を配置することも大切ですね」(伯子さん)

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切身加工の様子。魚の形状を見極めながら包丁を入れていく

石巻に生まれ育ち、水産加工業に携わって50余年の水野さんにこれまでとこれからについてお伺いしました。

「大きな災害にも見舞われましたが、苦労とは思わなかったなあ。これが人生だと思ってやってきました。従業員の存在や、自分たちの作った製品を食べてくださる方たちの声がこれまでの励みになってきたので、裏切ることはできない、そんな思いで続けてきました。従業員のためにどう会社を残していくかの課題はありますが、会社を大きくしたいという気持ちはなくて、これまでと変わらずおいしいと言ってもらえるものを作っていきたい、そう思っています」(水野さん)

ゼロからの再起を支えてきたのは、食べてくれるお客様からのたくさんの言葉と「魚とこの仕事が好き」という揺るぎない気持ちでした。「漬魚」という日本の伝統の魚食文化は、石巻の職人たちの手技によって、これからも守られていくことでしょう。

水野食品株式会社

〒986-0026 宮城県石巻市魚町3-1-37
自社製品:自社製品:冷凍漬魚、銀だら西京漬け、赤魚西京漬け ほか

※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。