「いやー、暑かったでしょう。お疲れ様!とりあえず冷たいものでも飲んで、一回ゆっくりして」
連日、猛暑が続く7月中旬、取材に訪れた我々にほがらかに声をかけてくれ、麦茶を手渡してくれたのはいりまん水産の代表を務める上神谷 光男(かみかべや みつお)さん。開かれた冷蔵庫には、お茶やコーヒーなどがびっしり詰まっており、従業員の皆さんはもちろん、そのお子さんたちも自由に飲めるようになっているのだそう。また、いりまん水産に訪れる運送会社の方などにも社長のご厚意で、よく振舞われるのだとか。
「暑い時には冷たいもの、寒い時にはあったかいものが一番のごちそうだって、母親によく言われて育ったんですよ。皆さんがあっての私なのでね。飲み物だけじゃなく、市場で珍しい魚が入ったら買ってきて会社のみんなと一緒に食べたり、従業員のお子さんと自分の家の子供を連れて、お寺や港に連れて行ったりもしますよ」(いりまん水産 代表 上神谷 光男さん、以下「」内同)
代々、個人事業として経営をしているいりまん水産は、令和元年に先代のお父様から現在の4代目に代表権が渡りました。創業は曽祖父の時代からで、その歴史は100年以上前に遡ります。最初の工場は、大津港の目の前にあり、創業当初から前浜に揚がるシラス、小女子を干したり、カタクチイワシで煮干しを作ったり、マイワシを丸干しなどに加工していました。築地市場が開場してからは、これらの商品を貨物列車で市場に卸す事業を開始。昭和30年代ごろには「築地までの貨車便に載せやすいから」と、駅の近くにある現在の場所に工場を移転しました。最盛期は、徒歩で10分ほどの距離にある線路近くまで私有地が続いていたのだそうです。
「祖父の時代、大津港は24時間操業で、船が入る時間に合わせてセリがあったんです。皆、日中に仕事を終わらせたいでしょう?だから朝や昼に入札が集中するんです。だけど逆に、深夜だと買人が少なくて昼に100円で取引されていた魚が50円くらいになって。そういう安くなる時間を狙って、良い原料を安く仕入れて商売を大きくしていったのだと聞いています」
そんないりまん水産の現在の人気商品は、「がんこおかみ」シリーズ。ちなみに名前の由来は上神谷さんのお母様。スーパーのバイヤーさんと商品のネーミングを検討している時、たまたま、お母様が話に加わったのがきっかけだったそう。
「母は竹を割ったような性格で、良いことは良い、悪いことは悪いと言う人でね。バイヤーさんには、母の印象がすごく強かったみたいで、“絶対にがんこおかみで行きましょう”と提案されました。製品自体は頑固にしすぎちゃうと売れなくなっちゃうので、原料にはこだわりながらも、地域によって味の違いを持たせたり、大きさで色々とバリエーションを作ったり、柔軟に対応しています(笑)」
シリーズのうちのひとつである、メヒカリを使った「がんこおかみの海の幸」は、茨城県水産製品品評会で水産庁長官賞、県知事賞などを数多く受賞するなど、高い評価を受けています。
震災当日は、午前中は小女子の水揚げがあったものの、まだサイズが小さかったため買い付けは行わなかったのだそう。1週間から10日後くらいには仕事ができるサイズになるだろうと、午後は小女子を干すためのせいろの準備などをしていました。そんな時に「立っていられないほど」の大きな揺れが襲ってきました。
「当時、うちの目の前は市民病院だったんですよ。病院から飛び出してきた患者さんや、お医者さんに“津波が来るから早く逃げてね”って、呼びかけて。学生さんもブロック塀のヘリを歩いていたから“危ない、崩れるよ”って注意喚起ばっかりしていました。親戚が石巻にいて、津波の被害を知っていたから、従業員もすぐに帰して自分達も高台に避難しました」
翌日、工場に戻ってみたら、分厚いセメントの床は縦に避け、レンガの煙突も半分に折れていました。工場は機械と冷凍庫は無事だったものの、床は一面水浸し。また漁協の冷凍庫に入れていた原料は津波ですべてさらわれてしまいました。
「大津港は船が路上に打ち上げられたり、二階建ての家の上に車が乗り上げたり、津波の被害がひどかったんですよ。避難する直前にもね、あれ、たぶん津波の第一波だったと思うんだけど、シャシャシャシャっていう音とともに泡立った水の壁がせりあがってきていたのを覚えています」
このように損害はひどかったものの、仕事の復旧自体は早かったのだそう。というのも、東北の取引先から突然電話があり、「とにかく食べ物がない。できる分だけでもいいから何か送ってほしい」というSOSが入ったから。そこで来れる人員を急遽呼び集め、冷凍庫に入っていた原料を使って干物の製造を始めます。ただし、それも福島の原発事故で一気に流れが途絶えました。
「原発事故が起きてから、“ごめんなさい、もういらない”ってなって。他もね、もう全部、注文がピタッと止まってしまいました。とりあえず従業員さんには工場の片付けなどをやってもらい、その後3年ほどは地元の水産加工組合と一緒に放射能検査のPRなど風評被害の払拭活動をしていました」
そして震災後に力を入れ始めたのがメヒカリの加工です。生産時期が限られるシラス、小女子に次ぐ安定した収入源を確保しようと震災前から手掛け始めていましたが、シラスで放射能が検出されてしまったこともあり、本腰を入れてメヒカリを使った製品づくりに取り組むことにしました。
「最初は“メヒカリなんて下魚だ”とか、“日本海の方はハタハタがあるからいらない”なんて言われて、全然扱ってもらえず、魚自体の知名度の低さを痛感しました。その後は父と2人で色々な地方に行って、市場の人やスーパーのバイヤーさんに無償で食べてもらって、意見を伺い、塩加減の調整、包装や入り数を変更など、スーパーで販売しやすいよう工夫を重ね、10年かけてようやく知名度が上がってきました」
当時の社長だったお父様は、目利きで市場からの信頼も厚い方でした。多くを語らず「人を見て覚えろ」という職人気質で、震災時に全く仕事がなくても「従業員は絶対に解雇しない」という方針がぶれることもありませんでした。そのお父様と2人で行動をともにし、「見て学んだ」ことが、今の上神谷さんにも影響を与えているのかもしれません。
震災前は京都、大阪、岐阜などにも広がっていた販路も、関東より西はすべて他社に奪われ、取引先の数が半分ほどに減ってしまったいりまん水産。メヒカリが軌道に乗ってきたため、売上は震災前の8割程度まで戻ったものの、あと一息足りません。
そこで、販路回復取組支援事業の補助金を活用し、ボトルネックとなっていた包装の工程に、シュリンク包装機と、自動ラベリングラインを新たに導入しました。今まではシールを手で貼っていましたが、人力ではできる量が限られる上、個人差もあって量産が難しかったのだそう。
「手で貼っている時代はスーパーの方から、“シールが右にいったり左にいったり貼る位置がずれちゃってる”なんて指摘を受けたりしちゃってね。少しでも売りやすいようにって、色々なご要望にお応えしていたら、包装やラベルも色々なタイプが増えてシール貼りの作業だけでも仕事が圧迫してしまって。でも、この機械が入ったおかげで、色々なオーダーが来ても柔軟に対応できるようになりました。今まで2人でやっていた作業が1人でできるようになったので、突発的な作業や、機械で出来ない作業が発生しても、そこにちゃんと人を割り当てられるのも大きいです。従業員さんも、この機械を最初に動かした時は“早っ!”って驚いてました」
ラベリングラインの導入によって、均一にきれいに貼れるようになったのはもちろん、以前は2名で10,000パック程度だった生産量が、1名で11,600パックにまで増加。シュリンク包装機も1名で1,200パック程度だった製造量が、同じく1名で2,800パック以上に倍増しました。
「これまでは商品を取り扱いたいと声をかけていただいても、生産体制が整わなくて対応できず、歯がゆい思いをしていたんです。生産量が上がったおかげで、これからは、どんどん仕事が受けられるようになると思います」
今後は工場を改修し、さらに環境を整備した後で、取引を待ってくれている相手との仕事が本格的に始まるのだそうです。ちなみに上神谷さん、買い付け、営業、経理などを1人でこなすだけでなく、自ら現場に入って製造にも携わります。特に干物は、大きさや時期、天候によって繊細に塩加減や干し時間を変える必要があるため、一度手で触って状態を確かめ、職人のような調整をする必要があり、他の人には任せられないのだそう。
また、忙しい中でも様々な魚種に挑戦し、お刺身品質の魚を干物にするなど試作品をたくさん作っているそうで、新商品開発にも熱心に取り組んでいます。こういった取組を知っている漁協の方が、「新しいものを探しているんだったら、いりまんさんがいいんじゃない?」と百貨店のバイヤーさんと季節商品の取り扱いが決まったこともあるのだそう。
「今は、自分で積極的に営業するのではなく、“いりまんさんの商品、スーパーさんの商談会に持って行きたいんだけど”って声をかけてもらうことが多いですかね。目利きでは信頼してもらっているんですよ。シラスも市場ごとに格差があるんだけど、うちで良いと思ったものを選別して市場に再出荷すると、“いりまんさんが出すなら間違いない”って買ってくれるんです。そういうつながりも震災で一は度切れちゃったけど、復活しましたね」
昨年からは、地元スーパーと協力し、大津港で揚がった魚を「大津港直送」「朝どれいわし」と銘打って販売する試みも始めました。これは大津港で底引き網漁の相場が下がり、他の港に船が流れてしまうことを危惧した上神谷さんが、「船が納得する相場で買って、大津港の水揚げを維持していきましょう」と地元スーパーのバイヤーさんに働きかけ、協力を取り付けた結果です。
「何だか、気が付いたら人に助けられるんですよね。困った時に、ふっと助けてくれる人が浮かび上がってくる感じなんです」
とおっしゃる上神谷さん。しかし「皆さんあっての私だから」と繰り返し、色々な人に手を差し伸べ、助けているのはむしろ上神谷さんの方な気がしてなりません。コロナの時も、「どうせ荷が動かないんだったら、少しでも市場の売上にしてもらおう」と、市場に無償で商品を提供したのだそうです。
この明るさ、優しさに惹きつけられ、「今度は自分が、いりまん水産さんの力になりたい」と思う人は、きっと、今後もどんどん増え続けていくことでしょう。
いりまん水産
〒319-1704 茨城県北茨城市大津町北町4丁目6-3自社製品:シラス干し、メヒカリ丸干し、メヒカリ開き、イワシ丸干し 等 ほか
※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。