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企業紹介第158回宮城県勝山水産株式会社

「伝統の味」を大切に育て、新旧商品両輪で適正経営をめざす

その日、宮城県塩竃市にある勝山水産株式会社の工場内では石臼でちくわの材料となるすり身が丹念に練られていました。

昔ながらの製法で石臼を使って看板商品の「鯛ちくわ」のすり身をつくる
じっくりと火を通して作られる「鯛ちくわ」

キントキダイすり身をふんだんに使った太竹輪は、ぷりっとした弾力のある食感。塩味の前に魚の甘みと旨味がふわっと口の中に広がって、そのまま食べるのはもちろん、野菜と炊き合わせてもしっかりと食べ応えのある存在感を放つ一品に。勝山水産が、専門店の誇りをもって、伝統の味と技法を守ってきた看板商品がこの「鯛ちくわ」です。

現在常務取締役を務める引地勝敏さん曰く“ちくわの穴には夢が詰まっている”そう。そのため、調理する人のアレンジも含めて完成形となるようシンプルで飽きの来ない製品作りに努めているといいます。

勝山水産は、勝敏さんの曽祖父にあたる引地勝利さんが、宮城県閖上で創業。当時は笹かまぼこを生産していたそうです。その後、現在の地に工場を建てたのは昭和7年。揚げかまぼこに生産の中心を移し営業してきましたが、昭和26年、同敷地内に自宅を建てた際、竹輪製造を専門にした形態に切り替えました。

「竹輪製造にシフトしたのは、その頃、揚げかまぼこは薪や炭を使い油で揚げていたため、人手も必要なうえ、火災の恐れもあるからという理由だったそうです。当時、揚げかまぼこは人気が高く、竹輪から揚げかまぼこに切り替える生産者が多い中、勝山水産はいわば逆の道をとったということになります」(勝山水産株式会社 常務取締役 引地勝敏さん。以下「」内同)

その後同社は、塩竃で当時3社しかない竹輪専門メーカーとして歩んできました。

勝山水産株式会社常務取締役、引地勝敏さん。創業者のようになってほしい、
という願いから曽祖父と同じ読み方の名前をもらったそう

キャパオーバー。24時間操業の状態から、自分たちが余裕をもってできる規模に転換

昭和中期から後期、販売先を東京にどんどんと広げ、受注量もますます増加。従業員も最大で50人を超えていた時もあったそうです。

「製造が完全にキャパオーバーでした。徹夜しても納期に追いつかなくて、従業員を帰した後は、家族が夜中に作業するという24時間操業の日々が続きました。私は小中学生ぐらいのころまで、親の働いている姿しか記憶にないんです。夕飯も祖母と食べていましたね」

そんななか、昭和後期から平成に向けて、現在の社長である引地利男さんは大きな変革をしました。販売先を特定の得意先に、商品アイテム数も絞り、自分たちが余裕をもってできる仕事にしよう、と規模を縮小したのです。

「自分だったらといいますか……、普通の会社だったら、土地を探して工場を大きくし、機械化を進めて会社の規模を大きくしていこうって考えるのかなと思うんです。でも、社長はそうした考えはなかったようで、休みもとれて、決まった勤務時間で帰る生活のために、現在と同じ従業員12人程度の規模に徐々に適正化したんです」

父である利男さんの当時の決断を、勝敏さんの現在の立場からどう思うかと尋ねてみました。

「今振り返れば、ありがたかったですね。商品も絞って、よい商品づくりに集中する現在の勝山水産の姿勢の土台になっていると思います」

大学生になるまでは家業を継ぐことは考えていなかったという勝敏さん。大学卒業後は地元宮城県のスーパーに就職しました。

「そのころは、もう家業に入ることになるだろうなとぼんやりと思っていたので、スーパーで勤めるからには、スーパーで何が売れているのか、値ごろ感はじめ消費者の声を直接聞いて学ぼうと考えていました」

勝敏さんが勝山水産に入ったのは30歳のときのこと。

「メーカーの方が熱意をもって商品を売り込みに来てくれるのを見るたびに、売る立場より作る立場になりたいなと思ったんです。自分たちが作った商品をお客さんが買ってくれる場面を見たいと。そのほうが感動を与えられるかもしれないと思いました」

お客様ともメーカーともいちばん近い売り場の現場にいたからこそ、商品づくりへのモチベーションが生まれたのです。

スーパーの総菜コーナーやお弁当、学校給食といった業務用をメイン商品とし、商社に卸売販売をしていた同社で、勝敏さんは営業を担当。市場を回ることから始めたそうです。

震災翌日、黙々と片づけを始めた社長の姿に「自分もやらないと」と心を決めた

勝敏さんが営業として入社してからちょうど一年後の2011年3月、東日本大震災が起こりました。大きな揺れのあと、すぐ従業員全員で裏の高台にある避難場所の小学校へ逃げました。着の身着のままの避難で毛布一枚もなく、とても寒い日でした。そのため、近くの高台にあった同社専務の自宅に従業員全員で一泊したそうです。

「次の日、工場を見て言葉を失いました。流されてきた船が敷地内に刺さっている状態で。ただ茫然とするしかないという状況のなか、社長が黙って片付けを始めて……。『もう1回やるぞ』とその姿が言っていると感じ、自分も手を動かしました。本当のリーダーシップってそういうものなのかもしれないと思いますね」

1・5mの津波を被った工場は大規模半壊。製造ラインも使用不能に。修理を重ねて3カ月後という早期に再稼働したものの、もともと4アイテムを製造していたラインは1アイテムに縮小せざるを得ませんでした。

また、工場再稼働までの間に、卸先は新たな取引先との取引を始めているところが多く、売上は震災前の約40%にまで落ち込みました。

「規模を適正化しようという動きの中で取引先を絞っていたので……。どんどん柱を取られていくようで厳しかったですね」

そこで、震災前は業務製品とメインとしてきましたが、新規の販路開拓のため日配製品に特化した商品づくりに注力しました。

「そのころは、日配製品の竹輪に関しては安価の製品が主流でした。自分のスーパーでの経験もあって、バイヤーが求めるものをつくらなければ。売れるのはこの価格、と思い込んでいたところがあります。でもそれを続けるにはすり身のランクを落として……と今考えると悪い方向に動いていて、自分たちの首をしめていたと思います」

業務用商品をメインとしていたころは、生産数が一定だったため、毎日の工場稼働は安定していましたが、日配製品の場合、今日は特売品のための商品で、明日は何も無いという不安定な稼働になり従業員にも負担をかけていた、と勝敏さんは振り返ります。

その状態が震災から9年余り続き、売上は震災前の6割~7割にとどまっていました。

あるバイヤーとの出会いと言葉が、自分たちの強みに気づかせてくれた

そんなとき、塩竃市同業者の紹介で、大阪の大手スーパーのバイヤーに出会います。本記事冒頭でも述べた「鯛ちくわ」を試食してもらったときのこと。生産数は多くありませんでしたが、石臼を使った伝統の方法で作り続けてきた商品でした。

「なんでこんないい商品を持っているのに、安価な商品ばかり作ってるんだ?」

竹輪がスーパーで売れる値ごろ感にとらわれていた勝敏さんは、この原料の値も張り、作る手間もかかり、価格の高い「鯛ちくわ」を「お客さんも求めていないだろう」と思い、売り込みに力をかけたこともなかったそうです。

「それならうちで売り込むから、うちと商品開発してしみないか。いい商品だし必ず売れるから」との提案を受け、トレーだったものを巾着型にするなど包装やパッケージを改良。どうしたらこの商品の特長をいかせるか、試行錯誤を重ね同スーパーの「宮城県産フェア」で売り出したところ、高い評価を得ました。その販売実績を携えて、東京の高級スーパーにも商談をもちかけ、取引開始に至りました。

「大手メーカーがボールカッターで30分足らずで摺り上げるところを石臼で1時間~2時間摺り続けて空気を多く含ませます。そうやって作っているからこそ出る風味と食感なんです」

スーパーのバイヤーにつなげてくれた塩竃の同業の先輩には、「絶対に近代化するな。強みを維持しろ」と言われたそうです。

「鯛ちくわと同じ製造法でスーパー向けに作っているのは知る限りうちの会社だけじゃないかと。大手企業が真似をできないことをして初めて中小企業は生きていける。自分たちの強みと価値に気づかせてもらいました」

その後は、安価な商品は一切持っていかず、「鯛ちくわ」だけを持って売り込むという営業スタイルに変えたという勝敏さん。今では、その味の評判が評判を呼び、「営業に行かなくても、商品が勝手に営業をして歩いてくれるようになった」と言います。

震災前から修理を重ねて使っている「鯛ちくわ」製造ライン。
じっくりと時間をかけ直火で焼き上げる
肉厚の食感と魚の風味がいきた「鯛ちくわ」
パッケージもスーパーのバイヤーとコラボして改良を重ねた

「鯛ちくわ」と両輪にするため
「焼き竹輪」生産ラインをテコ入れ

「鯛ちくわ」を看板商品とし、販路の開拓も順調に広げ、2021年度の売上も震災前の約8割まで回復しました。ここで勝山水産は、再び自分たちの足元を見つめることとなります。

伝統の製法と「鯛ちくわ」の味のクオリティを維持するためにこれ以上の販売先増はせず、今のスピードで作り続け、大切にこの商品を育てていこう、という方針を固めたのです。かつて、自分たちに適した仕事量に、会社の規模を縮小した判断にも通じるものがあります。

「先代から焼き竹輪に支えられてやってきたのだから、焼き竹輪で利益をきちんと得られるようになれば、鯛ちくわとの両輪で売上を安定させて従業員にも還元できるのではと。震災後は、日配製品が主流になっていますが、ふたたび業務製品にも中小である自分たちの強みを活かして2本の柱としていこうと考えました」

2021年の現状では、震災前に主力商品だった焼き竹輪の売上を震災前の状態に戻すことができていませんでした。早期の復旧のため、震災当時は機器を新規導入せず、元の機器を修理して使っていたため、津波の塩害により機械の腐食が進み、異物発生の問題が出てきていたのです。それらを除外するのに1名だったところを3名体制での稼働が必要なことに加えて、近年人手不足も加速、大口の注文に応えられない状況でした。

そこで販路回復取組支援事業を利用して導入したのが、「ボタン竹輪(焼き竹輪)オートメーション」と「見送りポンプ」です。

導入後は、焼き竹輪のアイテム数が3種類に増え生産量も、従来は3名で8時間かけて1万6,000本製造していたところ、2名、6時間で2万4,000本と大幅な増産が可能となりました。

従来からの「鯛ちくわ」製造ラインの隣に並ぶ「ボタン竹輪(焼き竹輪)オートメーション」。
まさに新旧両輪で商品づくりを支えている

増産分が可能になった焼き竹輪の販路開拓戦略について伺いました。

「うちには商品カタログがありません。顧客のニーズに合わせて商品形態を変えているからなんです。磯部揚げ用の竹輪なら1/4にカット、ヒジキとの煮物用なら5ミリスライス、おでん用ならナナメにカットなど、焼き竹輪をカットします」

さらには、同じ商品でも顧客が求める、売りやすい価格帯に合わせて商品1パックに入れる本数も卸価格もそれぞれ変えているというから驚きます。

「鯛ちくわの製品開発で学んだことですが、大手がしないことをうちは柔軟に対応する。中小企業だからできることを強みとし、惣菜メーカーやお弁当メーカーなどから新規のお取り引きをいただいています」

その強みをいかすため、省人化できた人員をカット竹輪の製造に配置しています。

焼き竹輪をさまざまなサイズにカット。
機械導入により生み出すことができた人員で、同社の強みをいかす大切な役割を担う

売り場の棚を「オール塩竃」で守って地域を盛り上げたい

今、勝敏さんが取り組んでいるのは、実績の上がった「鯛ちくわ」のパッケージデザインを塩竃の水産加工専門店同士でシェアして商品名だけを変えて販売、「オール塩竃」で、年間を通してスーパーの棚を確保するという取組です。

「スーパーの棚は、季節ごとに売れ筋の商品を置きます。たとえば鯛ちくわは春夏向けなので、秋冬に他の商品に入れ替えになることがあります。塩竃には専門店が多いので、秋冬は塩竃の別のメーカーの揚げかまぼこを入れてもらえるように同じデザインの兄弟商品として販売します。塩竃のかまぼこも竹輪もおいしいよねとお客さんに認知してもらえたらと思っています」

地域の中小企業の力を合わせれば必ず大きな力になる。これまでの経験を地域全体に広げて塩竃を盛り上げていきたい。そんな思いが伝わってきます。

春夏には期間限定で「青じそ入り鯛ちくわ」も販売しますが、それも一度買ってくれたお客様が飽きないように、本家鯛ちくわのリピーターを増やすのがねらいだそう。自社製品を育てていくのが楽しくて仕方ないという様子の勝敏さん。

「この道に入ってすぐ震災に遭いましたが、自分は、職人肌ではなくて何も知らずにこの世界に入ったのがよかったのかな。出会った人の言葉にチャンスをもらって、素直にやってみようと思えた。いろいろなことを吸収できたこの11年でした」

自分たちが守るべきことを大切に、できる仕事をしっかりと。時にはやめる、立ち止まって手放す決断もしながら。勝敏さんの言葉からは、これまでの歩みと自社の姿勢への誇りを感じました。

勝山水産株式会社

〒985-0003 宮城県塩竃市北浜3丁目8-16
自社製品:焼き竹輪 野焼き竹輪、生竹輪

※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。